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2007年8月

童謡かなりやの歌碑

上野公園の不忍池の湖畔を歩いていると、童謡かなりやの歌碑がありました。

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1918年(大正7)の秋、「赤い鳥」に発表された童謡「かなりや」は、
不忍池畔にあつたアパートの一室を仕事部屋にしていた西條八十が
不忍池を散策中に作ったといわれているそうです。

「かなりや」の歌詞 「唄を忘れた金糸雀(かなりや)」は、文学に志を
いだきながら日々の生活に追われている西條八十自身のことだそうです。
碑にはその「うたをわすれたかなりやは…」が刻まれていました。

不忍池をめぐるさまざまな人の思いが伝わってきます。


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ウォーキング運動発祥記念碑


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明治神宮外苑の絵画館前広場でウォーキング運動発祥記念碑を見かけました。

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この碑は、社団法人日本ウォーキング協会の40周年を記念したもので、
日本にウォーキングを広めるきっかけとなった「歩け歩けの会」が
東京オリンピックの前年の1963年(昭和38)に誕生したそうです。
東京オリンピック開催中の翌 1964年(昭和39) 10月に第1回ウォーキング
大会が開催されました。
そのコースは、ここ明治神宮外苑絵画館前から出発して、
世田谷の東京五輪記念世界青少年キャンプに向かうコースだったそうです。

その後、「日本歩け歩け協会」と改称し、 1983(昭和58)年 社団法人
日本ウォーキング協会 に発展したそうです。

日本橋はウォーキングの聖地ですが、明治神宮外苑は近代ウォーキング
運動発祥の地です。

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マンサード型駅舎の向ヶ丘遊園駅

小田急線の向ヶ丘遊園駅の北口駅舎は、歴史的価値のある建造物

だそうです。

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小田急電鉄は、1927年(昭和2年)に新宿~小田原間が開業しました。

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その時、従来の駅舎のイメージとは異なる高い屋根の牧舎スタイルの
マンサード型といわれる駅舎が、向ヶ丘遊園・新原町田・本厚木・

新松田・大秦野、の5駅に建てられましたが、現在残っているのは
向ヶ丘遊園駅(北口)のみだそうです。


原宿駅や以前の国立駅など風情のある駅は少なくなってきました。

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目赤不動尊へ

駒込の吉祥寺からすぐそばの南谷寺に目赤不動がありました。

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三代将軍家光の時代に、将軍家によって江戸を守るために、密教で重んじられた
青・白・赤・黒・黄の五色の不動が設置され、江戸五色不動と言われているうちの
一つです。

以前、三軒茶屋の目青不動尊を訪れたことがあるので、思わず立ち寄りました。

目赤不動尊 文京区本駒込1-20-20

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「かもめの水兵さん」と「こいのぼり」の歌碑

駒込の吉祥寺には童謡「かもめの水兵さん」の歌碑があります。

「かもめの水兵さん」は、昭和8年の秋、横浜港のメリケン波止場に叔父を見送
りに来ていた童謡詩人の武内俊子が、桟橋に飛び群れていたカモメを見て強い印
象を受け、作詞したそうです。

横浜の山下公園に歌碑があり、以前訪れたことがありますが、吉祥寺には作曲者
の河村光陽の墓所があり、そこに歌碑があります。

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(クリックで拡大)

境内の広い墓所の一角にあるので分かりにくいですが、事務所で尋ねると
わざわざ案内してくれました。

吉祥寺の江戸時代の創建時からある経蔵と鐘堂の間には、童謡「こいのぼり」の
譜面を刻んだ歌碑があります。

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(クリックで拡大)

童謡のこいのぼりには同名曲がいくつかあります。

◇作詞者不詳、作曲・弘田龍太郎 『鯉のぼり』1914年(大正3年)
 「甍の波と雲の波・・・・」

◇作詞・近藤宮子、作曲・小出浩平 『こいのぼり』1931年(昭和6年)
 「やねより 高い こいのぼり・・・・」

この「こいのぼり」の作曲者の小出浩平をたたえたものだそうです。


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吉祥寺の地名の由来は

駒込の吉祥寺は、エピソードの多い寺院です。

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曹洞宗諏訪山吉祥寺は明暦三年(1657年)の振袖火事の後、神田駿河台から
現在の駒込に移転したそうです。
現存する建物は山門と経蔵のみですが、山門には「旃檀林」(せんだんりん)の額
が掲げられています。
旃檀林とは1592(文禄元)創立の曹洞宗(そうとうしゅう)の学校(禅学の中心道場)で、
現在の駒沢大学の母体だそうです。

山門をはいると、八百屋お七のお七・吉三の比翼塚(ひよくづか)が目に付きます。

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1682(天和2)年12月大火のために、本郷の八百屋市左衛門の一家は駒込の吉祥寺
に避難しました。
そこで市左衛門の娘お七は、寺小姓の吉三郎(きちさぶろう)と恋に落ちます。
やがて一家は無事に本郷へ戻りますが、お七は吉三郎に逢いたくて翌1683(天和3)
年1月もう一度火事になったら吉三郎に逢えると考え、我が家に放火してしまい
お七は火あぶりの刑に処されたそうです。

追記:その後訪れた白山の円乗寺にも八百屋お七の逸話がありました。

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今も残る創建当時の経蔵は都内唯一の江戸時代の経蔵だそうです。

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また二宮尊徳の墓所もあります。脇には薪を背負い本を読む二宮金次郎像が
建っています。

なお、中央線の吉祥寺(きちじょうじ)(武蔵野市)は、明暦の大火のあと、当時
水道橋にあったこの寺の門前町の住民が移住し、新田開発した場所であることから
地名となったそうです。 

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奥多摩の町と東京都最西端のコンビニ

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奥多摩周辺は、昔から旅人が辿った道旧青梅街道でした。
街道をさらに西に大菩薩峠を越え甲府に至る甲府裏街道とも言われました。

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木炭運びの馬力・大八車や背負い荷の人々が行きかい、桧などの樹木を江戸に
伐りだす林業が盛んだったそうです。

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奥多摩駅周辺も1本裏通りに入ると、石積みの昔の家並みが川沿いに軒を並べて
います。

更に歩いてゆくと街道沿いのコンビニエンスストアに「コンビニ終点」
「東京で最も西にあるコンビニエンスストア」
の看板がありました。

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看板にはもっともらしく、北緯35度47分東経139度6分の表記があります。

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店内はバーベキュー用品が多い点を除けば特に変わった点はありませんが、
ここから数分歩いた橋の上から周囲を見渡すと自然がいっぱいです。

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コンビに終点にふさわしい光景です。

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奥多摩日原の風景

山深い日原鍾乳洞周辺は、人も車も少なく静かです。見渡す限りの山です。

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バスを待つ間、周囲を少し歩き回ってみることにしました。
このあたりは、あちこちに湧水があるのでミネラルウォーターが切れても困りません。

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鍾乳洞が出来るだけに石灰岩が多いせいか、地上も変わった風景です。

Imgp9526 梵天岩

Imgp9501 カゴ岩

切り立った梵天岩やカゴ岩の光景や、道路沿いの穴だらけの岩の光景は独特です。

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更に歩いてゆくとはるか眼下に小川谷の大滝が見えます。

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エメラルド色(濃緑色)の滝つぼと滝の白い色が印象的です。
バスの本数が少ないので、待ち時間が長いですが待っている間も飽きない風景です。

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日原鍾乳洞へ

青梅線奥多摩駅からバスで30分。そこから更に徒歩でゆくと日原鍾乳洞があります。

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日原鍾乳洞は関東随一の規模だそうです。

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鍾乳洞内は年間を通じて11℃です。夏のこの時期はひんやりと言うより寒く感じます。

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洞内は通路や照明等の設備は万全ですが、湧水で濡れた場所や狭くて急な階段が
続くので足元に気を取られていると、頭を岩にぶつけてしまいます。

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賽の河原・地獄谷・三途の川と言った不気味な名前を付けられた場所が各所に有
ります。
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狭い通路から突然広がる大広間と名づけられた地底の広場には、驚かされます。

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しかし、このあたりまでは「鍾乳洞」というよりも、「洞窟」と言ったイメージのほうが
強いです。
更に、新洞部分に行くと鍾乳洞らしい鍾乳石の石筍や石柱の姿を見ることができます。

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つらら状に垂れ下がる鍾乳石は、3センチ伸びるのに200年、上に向かって成長
する石筍は400年の年月を費やすそうです。まさに大自然の神秘です。

見学し外に出ると洞内とは20度以上違う真夏の光景です。
メガネとカメラのレンズが一気に曇ってしまいました。

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上野の駅伝の碑と正岡子規記念球場

上野公園の不忍池の弁天島に渡る橋のたもとに、駅伝の碑がが建っていました。

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大正6(1917)年4月27日, 28日, 29日の3日間にわたり「東海道駅伝徒歩競走」が
開催され、京都と東京の間(508km 23区間)で 駅伝が行われたそうです。
スタートは、京都の三条大橋、ゴールは上野不忍池の博覧会正面玄関だったそうです。
これが 駅伝のはじめとされています。

これを契機として, 3年後の大正9年に 箱根駅伝が誕生したそうです。
全く同じデザインの記念碑が, 駅伝の出発地である 京都にも建てられているようです。

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上野公園の野球場は、平成18年7月から「正岡子規記念球場」と命名され、
野球場の脇には正岡子規の「春風やまりを投げたき草の原」の句が刻まれています。、

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正岡子規(1867~1902)は愛媛県松山市に生まれ、明治時代のはじめに日本に
紹介されて間もない野球(ベースボール)を愛好し、明治19年頃から同23年頃に
かけて上野公園内で野球を楽しんでいたそうです。

子規の随筆『筆まかせ』には、明治23年3月21日午後に上野公園博物館横空地で
野球の試合を行なったことが記されています。
また、子規はベースボールを「弄球」と訳したほか現在も使われている「打者」「走者」
「直球」などの訳語も作ったそうです。

駅伝と野球のルーツが上野にあるとは意外でした。

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不忍池弁天堂は記念碑がいっぱい

夏の上野不忍池は蓮の花があちらこちらで咲いています。

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不忍池にある弁天堂は寛永2年(1625)天海僧正が寛永寺を創建した際、
不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島(ちくぶしま)に因んで、池中に中之島(弁天島)
を築き、のち竹生島の弁財天を勧請し弁天堂を建立したものだそうです。

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弁天堂の周囲には多くの供養塚や記念碑が立ち並んでいるのに驚かされます。

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天海僧正が没後、慈眼大師と号したことから、眼鏡の業界団体「東京眼鏡懇話会」
が、この地に建てためがねの碑

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東京ふぐ料理連盟が建てた、愛嬌のある姿のふぐ供養碑
詳しくは>>

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スッポンのおかげで90歳過ぎても元気で生きた人が建てたスッポン感謝の塔は、
すっぽんの形に彫られています。

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いと塚は三味線の糸の供養碑だそうです。

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「全国団扇扇子カレンダー協議会」が建てた、日時計の文字盤と地球儀を
型どった暦塚

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上豊調理師会が建てた、包丁型の包丁塚

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鳥塚は東京食鳥鶏卵商業協同組合 東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合
社団法人日本食鳥協会東京支部が建てたそうですが、
「鶏鳴新聞」!という業界紙に当時の記事がありました。>>

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魚屋さんの組合「東京魚商業協同組合」が建てた魚塚

さまざまな職業の人や団体が自分の扱うものに感謝していることが伝わってきます。

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上野の彰義隊と天海僧正

上野公園を歩いていると、西郷隆盛像の後ろの木陰に彰義隊戦死者の墓がありました。

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大政奉還後に上野寛永寺に謹慎した徳川慶喜を警護していた旧幕臣らを中心に結成された彰義隊は、徳川慶喜の水戸移転後も寛永寺に陣取っていましたが、新政府軍との戦い(上野戦争)に敗北し、壊滅したそうです。
ここは、上野戦争で死んだ彰義隊士を円通寺の住職が荼毘に付したところです。
正面の小さな石が明治2年に刻まれたもの、背後の大きな石が明治14年
に造立されたものだそうです。
明治政府への配慮から「戦死之墓」とのみ刻まれています。
題字は山岡鉄舟の筆。


彰義隊の墓の奥(北側)に天海僧正毛髪塚があります。

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徳川家康のブレーンとして江戸幕府の設立に活躍した政僧、天海僧正は江戸城の鬼門(北東)にあたるこの地に寛永寺を創建し、東の比叡山ということで東叡山と名付けましたその後108歳の長寿で、寛永20年(1643)死去し、この地に供養塔がつくられたそうです。

江戸幕府の庇護を受けた寛永寺は、子院36を含めた70の堂塔伽藍が立ち並ぶ巨刹に成長しましたが、幕末の上野戦争で五重塔や清水観音堂、総門など除いて焼失して
しまったそうです。

こんな近くに上野の歴史が凝縮しています。

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日本橋 一石橋

日本橋のそばにある一石橋は江戸城の外濠が日本橋川と分岐する地点に江戸初期からあった木橋だそうです。
「一石橋」の名前の由来は落語の十徳 (じっとく)でも知られていますが、この橋の北橋詰に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰に御用呉服商の後藤縫殿助が住んでいたことから、江戸っ子の駄洒落で両後藤=五斗+五斗=一石で、一石橋と名付けられたそうです。
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大正11年6月に木橋からRCアーチ橋(鉄筋コンクリート)に改架され、花崗岩の石張りの立派な橋となりました。橋幅は広く、中央を市電が通っていたそうです。
翌12年9月の関東大震災でも落橋せず使用されていましたが、現在ではその面影が残っているのはこの橋の親柱1本だけです。
残った親柱1本は大正11年当時の重量感ある大型の親柱で、関東大震災以前のRCアーチ橋のものとしては、都内最古の親柱として貴重な近代文化遺産とのことです。

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橋のたもとには「迷子しらせ石標」があります。
説明板によれば、江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったそうです。

迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政4年(1857)にこれを建立したそうです。
柱の正面には「満よい子の志るべ」、左側には「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがある。

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利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたそうです。

いわば庶民の告知板だそうですが、このようなものまで必要なほど、人々が行き交い賑わっていたことがよく分かります。

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鹿鳴館跡の碑


日比谷通りに面した帝国ホテルの隣の大和生命の前庭に鹿鳴館跡の碑があります。

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塀の壁面に掲げられた碑には
「ここは、もと薩摩の装束屋敷の跡であって、その黒門は戦前まで国宝であった。その中に明治十六年鹿鳴館が建てられ、鹿鳴館時代の発祥地となった。」とあります。

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鹿鳴館は、東京内幸町に建てられた洋風建築の社交クラブで、イギリス人コンドルの設計で、1883年(明治16)落成した煉瓦造り二階建ての建物です。
外務卿井上馨が不平等条約の改定を目的として、列強各国に我が国が西洋文明を受け入れた同等の国である事を誇示する為に建てられた社交場で、毎週、貴族、お雇い外国人、列強外交官を招いて舞踏会が繰り広げられたそうです。

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現在はビル内禁煙のせいなのか喫煙コーナーとなっており、ビジネスマンの憩いの場となっています。

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兜神社と兜町の町並み

東京証券取引所本館の前の道路を挟んで日本橋川の辺に兜神社という小さな神社があります。
兜町という名称の由来は、この兜神社の「兜岩(かぶといわ)」にあるといわれています

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この石にはいくつかの伝承があるそうです。
◆源義家が奥州から凱旋する際に、東国の反乱鎮定のために兜を楓川のほとりに埋めて塚を築き、これを兜塚と呼んだという説。
◆前九年の役の頃、源義家が東征する際に、兜を岩にかけて戦勝を祈願したことからこの岩を「兜岩」と呼んだという説。
◆藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が将門の首を打ち、兜と一緒にここへ持って来て、兜だけを埋めて塚を築いたことから兜山と呼ぶようになった

という3つの説が伝えられています。

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神社の御祭神は、主が商業の守護神の「倉稲魂命(うかのみたまのみこと=御稲荷さんの別名)」で、合祀されている神様は、大国主命(大黒様)と事代主命(恵比寿様)だそうです。
兜神社は証券界の守り神とされていますが、今日は証券取引所はお休みなので閑散としていました。(日本橋兜町1-8)。
最近はオンライン取引が主流ですし、ゼスチャーで株の売買をする場立ちの姿も消えましたから、昔ほどは参拝する人も少ないのではないでしょうか。

東京証券取引所を中心とした兜町の証券会社の中には、落ち着いた雰囲気の戦前の建物が今でも残されています。

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山二証券は大正末期に建てられた建物です。

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成瀬証券は1935年(昭和10年)に建てられました。
株価に目を奪われていると気がつかない、休日の兜町ならでは一面でした。

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座間のひまわり広場

座間市栗原の「ひまわり広場」でヒマワリが満開とのことで、小田急線相武台前から歩いて行きました。

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歩いてゆくと突然、栗原高校北側に広がる約90アールの畑一面に、広がるヒマワリに出くわします。

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この一角だけで9万本のひまわりがあるそうです。

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広場の一角には見晴らし台があり、そこから全体を見渡すと壮観です。

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座間市内にはヒマワリが約55万本植えられているそうで、座架依橋南側の「座間地区」や、新田宿グラウンド南側の「四ツ谷地区」にもひまわり広場があり、こちらは8月中旬に見頃を迎えるそうです。

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