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2008年9月

白山の懐かしい風景

白山あたりを歩いていると、あちこちに懐かしい風景を見かけます。

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富士見湯は今は少なくなった江戸の銭湯の特徴の、唐破風屋根
(屋根の上半分をふくらませ、下半分に反りをつけた曲線がきれいな屋根)
が立派な、堂々たる姿です。

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かつて長屋の雰囲気を残した家も残っています。

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家の前の鉢植えも、長年丹精込めた様子が感じられます。



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こちらは、今ではあまり見かけなくなった黒板塀の建物です。

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玄関の引き戸には店名が彫りこまれており、粋な商売であったことを
感じさせます。

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道の角にある椎木稲荷は小さな場所に様々な鉢植えが密集しています。

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この場所には、「小石川小十人町、番屋跡」の説明板が立っています。
江戸時代の万治年間(1658~61)、このあたりは小十人町であったそうです。
小十人町は身分こそ低いが、徳川将軍家が江戸から他の地へ行く場合、
警護にあたった由緒ある家柄の持ち主が住んでいたそうです。

こうした普通の人々の生活の歴史が感じられる場所は少なくなってきました。

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白山 浄心寺坂と八百屋お七の墓

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文京区白山1丁目に浄心寺坂という坂があります。
浄心寺というお寺が近くにあるので、この名がついたそうですが、

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坂の下に「八百屋於七」の墓所の円乗寺があることから「於七坂」とも
言われているそうです。
 
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八百屋の娘であったお七は、 天和の大火(天和2年)で自宅が焼けてしまい、
一時、円乗寺に避難していていましたが、そこの寺小姓の佐兵衛と恋仲になり、
自宅に戻っても忘れられず、 会いたい一心で放火をしてしまいました。


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このため、放火の大罪で捕えられ、天和3年(1683年)数え16才の若さで
火あぶりの刑に処せられたそうです。
円乗寺の入り口の祠には「南無八百屋於七地蔵尊」と記された赤い幟が
立っています。

以前訪れた駒込の吉祥寺も、お七が出会った場所と言われていますが、
井原西鶴の好色五人女では「お七と吉三」の出会いの舞台は吉祥寺ですが、
実際にお七一家が避難したのは八百屋八兵衛の檀那寺の円乗寺であった
そうです。

また、吉三郎は放火をそそのかしたならず者で、本当の恋人は佐兵衛と
いう人物であったという説もあるそうです。

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境内にある八百屋於七の墓には、今も絶えず若い女性たちが訪れ
花を供えているそうです。


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春日の曙坂と胸突き坂、誠之館跡

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文京区西片の誠之小学校近くにある、短かくて急な石段坂が「曙坂」です。
(西片2丁目7と14の間)


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説明板によればこの近く(今の白山、東洋大学の北西)は、俗に鶏声ヶ窪
といわれるところだったそうです。
明治2年(1869)に町ができて、鶏が暁にときを告げるところから、あけぼの
(暁と同じ)を取り町名としたそうです。
この坂は西片と白山を結び、人びとの通学や生活に利用されてきました。
昭和22年(1947)に石段坂に改修されたそうです。



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曙坂を上ると、すぐ文京区立誠之小学校がありますが、校門の脇に
説明板があります。

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このあたりは、福山藩の中屋敷跡で、「誠之館」と名付けた江戸の藩校が
あったそうです。
誠の哲学を説く儒教の書「中庸」の中の「之を誠ニスルハ人ノ道ナリ」 
から、名付けられたそうです。

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誠之小学校の先を左折すると、胸突坂です。
坂道急峻で左右は石垣に囲まれ、苔が生え滑かなため、胸突坂と
名付けられたそうですが、現在では普通の坂です。

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「胸突坂」と名付けられた坂道23区内に4ヶ所あるそうですが、その内3ヶ所
が文京区内にあるとのことで、文京区には急な坂が多かったことが分かり
ます。



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春日の石坂と新坂、樋口一葉終焉の地

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都営三田線の春日駅から菊坂方面に進み興善寺の先を左折すると、
石坂という坂があります。 逆S字に曲がった姿のきれいな坂です。

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坂を上ると西片町ですが、説明板によると、この坂の台地一帯は、
備後福山藩(11万石)の中屋敷と、幕府の御徒組、御先手組の屋敷で
あったそうです。
明治以降、東京大学が近い関係で多くの学者、文人が居住したそうです。
田口卯吉(経済学者・史論家)、坪井正五郎(考古学、人類学者)、木下
杢太郎(詩人・評論家・医者)、上田敏(翻訳者・詩人)、夏目漱石(小説家)、
佐佐木信綱(歌人・国学者)、和辻哲郎(倫理学者)など、
有名人が多く住んでいたので、西片町は学者町といわれたそうです。

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坂上を進み、十字路を左折すると新坂という坂に出会います。
新坂と呼ばれる坂は文京区内だけでも六つあるとのことです。
坂の説明板によると、「
新撰東京名所図会」に、「町内(旧駒込西片町)
より西の方、小石川掃除町に下る坂あり、新坂といふ」とあるそうです。

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坂上にあった旧福山藩主の屋敷に通じる、新しく開かれた坂という
ことで、名付けられたそうです。
また、福山藩ににちなんで、福山坂ともいわれたそうです。


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坂を下りた一帯が、旧丸山福山町で、この地は樋口一葉の終焉の地でも
あり、白山通りに面したビルの一角にそれを表す碑が建てられていました。

説明板によると、
一葉の本名は奈津。なつ、夏子とも称した。
明治5年(1872年)東京府内幸町(現・千代田区内幸町)に生まれ、
明治29年(1896年)この地で、24年の短い生涯を閉じた。
終焉の地ここ丸山福山町に居を移したのは、明治27年(1894年)
5月のことである。
守喜(もりき)という鰻屋の離れで、家は6畳と4畳半1間、庭には
3坪ほどの池があった。
この時期「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「ゆく雲」など珠玉
の名作を一気に書き上げ、”奇跡の二年”と呼ばれている。
「水の上日記」「水の上」等の日記から丸山福山町での生活を偲ぶこと
ができる。


とのことです。

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こんにゃく閻魔とは

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文京区の春日を歩いていると、こんにゃく閻魔という場所がありました。
源覚寺というお寺に安置されている閻魔像が、こんにゃく閻魔と言われている
そうです。

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右眼が黄色く濁っていることから、閻魔王が信心深い老婆に己の右眼を与え、
老婆は感謝のしるしとして“こんにゃく”を供え続けたそうです。
このことから、眼病が治るとして庶民の信仰を集めたそうです。

像は、あまりよく見えませんでしたが、ヒノキ材の寄木造りで、玉眼が嵌入
された優れたできばえで、運慶派の流れをくむ鎌倉時代の作らしいです。

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閻魔像の前には、こんにゃくが山のように供えられていることから、
今も多くの人の信仰を集めていることが分かります。

こんにゃく閻魔は、夏目漱石「こころ」(大正3年)の中で、若き日の「先生」
が大学への通学路にしていた所です。
  
十一月の寒い雨の降る日のことでした。私は外套を濡らして
例の通り蒟蒻閻魔を抜けて細い坂道を上がって宅へ帰りました。


また、一葉の『にごりえ』(明治28年)にも、描写されているそうですが、
二人ともこの近所に住んでいました。

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また、境内の一角には真っ白な塩に包まれた塩地蔵がありました。
塩地蔵は、歯痛治癒の信仰を集めているそうです。
歯痛の人は、塩を供えて祈り、完治の折には塩の量を倍にして
お礼参りをすることになっているそうです。

このように大量に集まった蒟蒻や塩はどのように利用されているのか
気になります。

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時計だらけの風景

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銀座を歩いていると時計のswatchショップが目につきました。
お店を覗いてみようと店専用のエレベーターに乗ってみると

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エレベーターの壁面全体のカラフルな色彩に圧倒されます。

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落ち着いてよく見てみるとすべてswatchです。
乗っているだけでわくわくしてくるエレベーターです。

さまざまなお店が立ち並び、話題の多い銀座ですが、それぞれの
お店が工夫をしているのが伝わってきます。

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